富岡町研修ツアーに参加して 2月27日(金)

 私は、昨年の夏 福島県の沿岸部にある富岡町へ出かけました。
 2011年3月11日、福島県の沿岸部も大地震とその後大津波に襲われました。ここには東京電力福島第一原子力発電所と第二発電所があります。福島第一原発は原子炉を冷却する電力を確保できなくなり、3基の原子炉で爆発が起こり、大量の放射性物質が大気中にまき散らされ、深刻な被害を引き起こしました。

 富岡町は福島第一原発から半径20キロ圏内にあり、大地震の翌日から全町民に避難命令が出ました。
2年近く町内への立ち入りは制限されていましたが、今は日中の立ち入りが認められ、町民の帰還に向けて土壌や建物に付いた放射性物質を取り除く『除染』が始まっています。福島の被災地に関心があった私は、富岡町に行く2つの研修ツアーがあることを知り、両方とも参加することにしました。実際に富岡町にいたのはそれぞれ2時間から2時間半程度でしたが、2回目は何か所かを歩いて回りました。
 
 海岸沿いの津波に襲われた、JR富岡駅はホームの鉄骨はぐにゃぐにゃに折れ曲がり、電線も垂れ下がったままでした。近くの住宅では、家のど真ん中に白の軽トラが飛び込んでいました。避難誘導にあたった2人の警察官が乗っていたパトカーは、ぺちゃんこにつぶれ、それがパトカーとは信じられませんでした。
 
 内陸部に行くと、地震で倒れたり被害を受けた建物もありましたが、何の被害も受けていないように見える建物もありました。町の中心部にある町役場や町民センターはとても立派で、個人の住宅も新築や大きな家が多く、富岡町が豊かな町だったことが分かります。

町の北にある「夜ノ森」地区にも行きました。ここは桜並木が有名でした。今は住宅街の真ん中に、延々と鉄製のフェンスや鉄パイプで作られたバリケードが続いています。このバリケードから先は、
「帰還困難区域」です。「帰還困難区域」とは、放射線量が非常に高く、今後も長期にわたってもどることが難しい地域です。

 どこへ行っても住民は全くいませんでした。暑い夏の日で、セミや鳥のにぎやかな鳴き声が聞こえ、のどかな景色なのに、今この町にいるのは、私たち研修ツアーのメンバーと作業で働いている人たちだけだと思うと、とても不思議な感覚でした。

 富岡町は農業がさかんで、広々とした田畑が広がっていますが、今は雑草が生い茂り、木が育ち始めた田んぼもありました。
田畑の表面の土は、放射性物質で汚染されているので、表面を削り取ります。その削り取った土は、大きな黒いビニール袋に詰められます。いたる所に仮置き場があり、数え切れないほどの袋が整然と積み重ねられていました。
 
私は岩手県大槌町に行ったことがありますが、大震災から1年半たった町では、がれきの大半は片付けられていました。
しかし、同じ被災地でも原発事故の被害を受けた地域は、3年半経っているのに復興は始まったばかりでした。

 被災地でよく聞く言葉が、2つあります。1つは、「私たちのことを忘れないでください」
もう1つは、「ここで見たことを、帰って伝えて下さい」という言葉です。

福島第1原発を完全に安全な状態にするためには、30年から40年かかると言われています。
富岡町をはじめ原発事故で避難した人たちがふるさとに帰るためには、本当に厳しい現実が待ち受けています。

もうすぐ、東日本大震災から4年が経ちますが、人々の関心は薄れ、風化が進んでいます。
同じ日本で、今も苦しんでいる人たちがいることを、わたしたちは忘れてはいけないと思います。

私たちにできることを、これから一緒に考えてみませんか。